尾張屋半蔵のこと
尾張屋から尾半、そして、びはんへ。
江戸時代中期から伝わる、尾張屋のあゆみ
三陸の港町・岩手県山田町の皆様の台所として長年、地域とともにその歴史を刻んできたびはん。
その始まりは江戸時代にまでさかのぼります。
江戸、明治、大正、昭和、平成、そして令和へ。
地域に必要とされるびはんであり続けるために、私たちの商いは時代とともにそのかたちを変えてきました。
変わらぬ思いと変わり続けるかたち――びはんのこれまでの歩みをご紹介します。
尾張から三陸へ
間瀬半七の「重要日記」から
はじまりは尾張国
江戸時代中期の正徳年間(1711〜6年)。尾張(愛知県)から遠く離れた三陸の岩手県宮古市に移り住み、「尾張屋」という店を始めた人物がおりました。
それから数えて八代目の当主・間瀬半七が残した文久2年(1862)年の「重要日記」からは、手代の5人以下多くの従業員を抱える商家であった様子が見て取れます。半七は、間瀬家の七代目当主・半兵衛の娘のおさつと結婚し婿に入りますが、南部藩で猛威を振るったはしかによって妻と2歳の娘を失います。ほどなくして高齢の半兵衛も亡くなり、婿の身ながらただ一人の間瀬家の継承者となりました。
流行り病によって先代や家族、従業員を失うという危機的状況で、南部藩のお膝元である盛岡最大の御用商人・鍵屋(村井)京助の支援を受けながら、事業を継続させた様子も伝えられています。
その後、宮古から山田に分家し、「尾張屋」と名の「半蔵」から1文字ずつ取り「尾半」を名乗るようになりました。
「山田の醤油」の原点と「尾半本店」の始まり
尾半醤油醸造所と四代目半蔵の多角経営
味噌・醤油の製造から多角経営へ
明治に入り、明治16(1883)年にはたばこと教科書の販売を始め、2年後には味噌と醤油の製造許可を取得。「尾半醤油製造場」の看板を掲げ、山田町の内陸部で醤油づくりを始めました。二代半蔵のころのことです。これが後の平成に復活する「山田の醤油」の原点です。明治33(1900)年には「尾半商店」を名乗り、本格的に小売業と卸売業に乗り出しました。
今日もガソリンスタンドやスポーツジム、飲食店など山田町の皆様の暮らしに密接なさまざまな事業を手がけるびはんですが、その基礎を築いたのは四代半蔵です。病弱だった父に代わり若くして尾半を背負うこととなった四代は、日用品や雑貨を網羅した大規模店舗を開業。さながら「百貨店の観を呈する」とその様子が伝えられています。
その後も四代は、三陸の宮古と大槌を結ぶ乗合バスの運行や呉服店、海産物の販売などを手がけ、尾半の名は岩手県下で知られるところとなったと言います。
まだ汽車が走っておらず、陸上流通が発達していなかったこの時代、地域外からの流通は船が主流でした。塩釜の廻船問屋が運ぶ商品の仕入れを山田町では尾半が一手に担い、その規模は宮古〜釜石一帯ではもっとも大きかったとか。尾半の敷地内には、「鉄蔵」「紙蔵」といった具合に様々な仕入れ品を納める蔵が10以上並びました。
間瀬三郎と尾半商店
スーパーマーケット「びはんストア」
地域の暮らしを守る山田の台所へ
四代半蔵の長男・半一は太平洋戦争で戦死。尾半を引き継いだのは、三男の三郎でした。太平洋戦争終戦後に復員し六代を襲名した三郎は、昭和25(1950)年に尾半商店代表に就任すると、さまざまな経営改革に乗り出しました。
その際に、醤油と味噌の製造販売からの撤退を決断しました。三郎自身、醸造の勉強のため東京に赴くなど思い入れのある事業でしたが、小規模なままでは採算が合わないと判断し、10以上あった醸造蔵の多くを取り壊しました。
さらに、それまでは尾半商店の事業として経営していたガソリンスタンドや衣料品販売や交通などそれぞれの部門の分社化を進め、その中で残った日用品の小売業を基礎として三郎が始めたのが、スーパーマーケットの経営でした。開店は昭和33(1958)年12月8日。現在に続く「びはんストア」の始まりの日です。
それまで多様な事業を手掛けてきた尾半ですが、実は肉や魚、野菜などの生鮮食品を扱うのはこの時が初めて。三郎夫婦は関西などのスーパーに足を運び、そのノウハウを学びながら、地域に必要とされる店づくりに励んできました。
三郎の志を引き継ぎ、半世紀以上にわたって「びはんストア」は地域の皆様とともに山田の地にあり続けてきました。平成になって復活させた「山田の醤油」、「尾張屋半蔵」の名を冠した自社手づくりの水産加工品、そして東日本大震災後に全国の皆様とのご縁の中で生まれた商品の数々……。「山田の台所」であるびはんから、山田の魅力を伝える商品を発信していくことも令和の時代の私たちの使命だと考えています。
ニューギニア戦線記
間瀬三郎が部隊長を務めた
日本陸軍第36師団通信隊の元隊員による
「ニューギニア戦線記」
戦後、びはんストアの礎を築いた六代目の三郎は陸軍士官学校で学び、インドネシア領のニューギニア島西部・サルミで第36師団通信隊の部隊長として前線での任務についていました。
第36師団はおもに東北出身者で構成されており、終戦翌年の1946年6月に日本へ帰国するまでの約2年半に及ぶ過酷な状況が綴られています。
この中には、三郎が帰国後に、サルミで命を落とした戦友たちの家々に足を運び、仏前に手を合わせたエピソードも書かれてています。
pdfでご覧いただけます。
pdfダウンロードびはん年表
江戸時代中期 | 愛知県から岩手県宮古市に移り住んだ人物により「尾張屋」が始まる |
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1862年(文久2) | 「重要日記」が記される |
1883年(明治16) | たばこと教科書の販売を開始 |
1885年(明治18) | 醤油と味噌の製造・販売を開始 |
1900年(明治33) | 尾半本店開店 |
1932年(昭和7)ごろ | 宮古〜大槌間で定時運行の乗り合いバス事業を開始 |
1947年(昭和22) | 山田の大火で山田町の中心部が被災 |
1955年(昭和30) | 醤油と味噌の製造から撤退 |
1958年(昭和33) | びはんストアオープン |
1996年(平成8) | かつての味を再現した「山田の醤油」を発売 |
2011年(平成23) | 3月 東日本大震災の津波により、店舗と加工場、ガソリンスタンドが被災 8月「プラザ店」再開 |
2013年(平成25) | 新店舗「豊間根店」オープン |
2016年(平成28) | 新店舗「オール店」オープン |
2021年(令和3) | 間瀬慶蔵が代表取締役に就任 |